いつの時代も「思考停止」で踊らされる 日露戦争 ―勝利のあとの誤算 文春新書
「祖国防衛戦争」だった「日露戦争」のぎりぎりの勝利?(勝利か?あれからまだ満洲の地で陸上戦があったらどうなっていたのか?)に
沸く日本人とそれをあおる「マスコミ」。一部の「学識者」(どんな学識やら)。
どの国の人間にも自分の頭で考えない「思考停止」人間は多いものだが、特に日本人は「寄らば大樹のかげ」「赤信号みんなで渡れば怖くない」の傾向が強いと思う。
昨今の状況を見ても同じ。誰かが言った事に自分の「脳みそ」で考えずに、踊らされる。あげくに馬鹿を見るのは結局当人達。
大きな書店に行く度に、なんでこんな本が?と思うものが平積みされている。
まともに読んでいるのか?ちゃんと自分の「大脳」で考えていますか?いつの時代でもお上のやる事は信じちゃだめだよ。
と言っても誰も聞かないものねー。そんな人は読まない本ですね。
某有名大学を出た頭脳明晰な友人でも、自分の博識に自信を持っているのか、お上のやる事を信じている。
あー、100年前と同じだー。
マスコミの姿勢は相変わらず 日露戦争 ―勝利のあとの誤算 文春新書
昔から日本に害悪しか与えていない存在に「マスコミ」と「外務省」がある。
この日露戦争のあたりでは外務省は、まだまともだったのだが当時からマスコミは
ろくな存在ではなかったことがわかる本。
国家はその戦略から機密も持つだろうし、うそをつかざるを得ない時もあるだろう。
マスコミは自分達が知識人だと勘違いして誤った思想を国民に垂れ流すという罪を
生まれた時から現在までずーっと続けて、しかも反省もしない。
まあ、その間違った言説にのってしまう国民も悪いといえば悪い。
それでもこの時期のマスコミは弾圧に負けず政府の陰の部分を必死で暴き出そうとしている
姿勢は今のマスコミに比べれば100倍ましなのだが。
またこの本に出てくる講話条約発表後の暴動が政府にしくまれたガス抜きだったのでは
という意見は大変興味深い。政府にせよマスコミにせよ大きな存在に踊らされずに
生きていくというのは実に大変な作業である。
当時の社会情勢・風潮を鮮やかに描く 日露戦争 ―勝利のあとの誤算 文春新書
「勝利のあとの誤算」と言うよりも、当時の社会情勢・風潮を本書は鮮やかに描き出している思う。講和条約反対から一転して凱旋に湧く一方、捕虜に対して冷たい視線を送る世論、発行停止処分を受け変遷していく新聞の論調、緻密な計画性の見える焼き討ち、などである。国益を第一に考え、忠実に任務を遂行していった小村寿太郎に対し、保身に長け、世論操作の術も知っている桂太郎らの人物描写も興味深い。明治天皇が崩御した1912年までのことが本書に書かれているが、まさに日露戦争は明治の終わりの始まりだったのだろう。
日露戦争から学ぶことは多い 日露戦争 ―勝利のあとの誤算 文春新書
戦争を始めるのはいともたやすいが、終わらせるのは大変な苦労があるし、その後の処理は重要である。
一般に日露戦争の戦後はあまり評判がよくない。合理的な戦訓の分析がなされず、おごり高ぶった軍部と国民は第二次大戦の破綻まで突き進んだ、とされることが多い。
本書は日露戦争後のおごり高ぶりについて、論客や新聞、雑誌などについて具体的に読み物的に示し教訓を示してくれる。
特にマスコミと政治の関係については、今日の我々も学ぶところが多い。
幅広く掘り下げた労作 日露戦争 ―勝利のあとの誤算 文春新書
日露戦争には確かに勝った。しかし、「ようやく勝った」ことを当時の国民は知らない。いや、知らされていなかった。これは、マスコミの責任が大きい。戦勝を煽った新聞は、戦争により恩恵を受けた。大幅に販売部数が伸びたのだ。「ようやく勝った」 ことを知らない一般大衆は、ポーツマス条約の内容には、我慢できない。一般大衆は、家族や親戚に戦死者、戦傷者を持つものも多い。国民の払った犠牲は、日清戦争の比ではない。その大衆の不満に「火をつける」輩もいた。そして、日比谷焼打ち事件が発生する。
サブタイトルである「勝利のあとの誤算」は、本書のスタンスを良く表している。池辺三山(朝日新聞)、「ニコポン宰相」といわれた桂太郎、その愛妾お鯉等の人物への掘り下げもあり、面白い読物となっている。